椅子
先日、木製の椅子を作った。
近頃木材に触れる機会が多かったので、簡単そうに思われた椅子を作ってみた。
DIYではよくあることだが寸法が微妙にずれる。
おまけに寸法のみを考え、全体像をイメージせずに設計したため、
外見が椅子なのかテーブルなのか分からないという有様である。
出来栄えはお世辞にも良いとはいえないが、
出来上がった椅子には市販品にはない愛着が湧く。
市販品にはない手作り感が却って良い味を出している。
作業行程は簡単で、設計して材料を切断したら、後はネジで固定していくだけである。使用する木材の量も、切断する数も多くない。
設計だけ出来上がればあとは単純作業であり、
ただ木材を加工するだけなのでストレス解消にもなる。
忙しい毎日を過ごす現代人にこそ、時には趣味に時間を費やすことも必要だ。
椅子程度なら、2、3時間程度でできるし、材料費も2000円もかからない。
(今回はニス等は使用していないのでこの程度だが、使用するともう少しかかるかも)
精神が疲れたと感じたら、一度やってみてはいかがか。
人に流される
参院選が一昨日行われたので、それに関わるネタを綴ろうと思う。
選挙期間中、ネット上で有権者の声をしばしば目にする機会があった。
率直に言ってなかなか面白い意見もあるものだと感じた。
但し、良い意味ではない。
所謂(日本的な意味での)右翼の一部の有権者からは、民共が力を持ったら国が滅ぶという声が聞かれた。
差別的な発言になり憚られるが、彼らが言うには民共、とりわけ共産党は在日ばかりだから、力を持つのは売国を意味するらしい。
ここで興味があるのは、どこからその情報がもたらされたか、という点である。
詳しい出処はわからないが、間違いなくどこかからもたらされた情報を鵜呑みにしているのだろう。
外から入ってくる情報を拒絶するべきではない。
なぜなら、もたらされる情報には自分一人では知り得ないことも多いからだ。
問題は鵜呑みにすることである、これはいただけない。
周囲の情報を鵜呑みにする人間は、得てして都合のいい情報は受け入れ、
都合の悪い情報は切って捨てる。要は情報への応答が1か0なのだ。
思考停止というよりほかない。結局、周囲の情報に支配される。
例えば1+1を3という人がいたとする。
その情報を鵜呑みにすれば言わずもがなその情報に支配され、1+1を3と考えるようになる。
尤も、多くの人はこの情報は間違いだと言うだろう。
外部の情報を否定するには何らかの根拠が必要であるが、
学校でそう覚えさせられたから、と答える人が多いだろう。
前者であれ後者であれ、実に権威主義的で情報に支配されているという点に変わりはない。信じる対象に違いがあるだけである。
しかし、日常生活において自分の信じる対象が必ず正しいとは限らない。
だからこそ権威主義的に盲信するのではなく、周囲からの情報を吟味する必要がある。
周囲からもたらされる様々な情報の一つ一つを吟味し、そのうちの必要な部分を取り込み、自身の血肉とすべきではなかろうか。
周囲の情報に支配され、人に流され生きるより、
考えて生きるほうがよほど良い人生だと私は思う。
元々は私自身の政治的思想に触れようと考えていたのだが、綴っているうちにメディアリテラシー的な内容になってしまった。
なので私の政治的思想はまた別の機会に預けることにする。
足跡
研究生活を始めて2ヶ月半余りが経過した。
これまでただがむしゃらに突き進んできた私であったが、
改めて自分のルーツと現在の立ち位置を見直す機会を得た。
自分はここで何をしたかったのか、自分は何のためにここにいるのか。
そのために今自分は何をしていて、何が必要なのか。
現在行っていることの本来の目的は本格的な研究のための前段階、いわば基礎研究であったのだが、いつしかその基礎研究にのめり込み、前へ前へと突き進むようになった。
不安から目を背けたいという気持ちがそれを後押ししていた。
前だけを向いて突き進んできたその足跡を振り返ってみると、そこにあったのは地に足がついていないような足跡ばかりだった。
ただ前だけを見続けた結果、一歩一歩を疎かにして自分の終着点さえ見えていなかった。
壁にぶつかって思う、今までが駆け足過ぎたのだと。
そのせいで、周りが見えなくなっていたと。
まずは改めて自分の目指す山から見定めようと思う。
これまで突き進んできて、周りの景色は大きく様変わりしたのに自分がそれに気づいていなかった。だからこそ次に進むべきルートを常に探していた。
自分が成したいのは、世界に新しいことを生み出すということのはずだったのに、
いつしか道筋となる他人の足跡を探していた。
改めて周りを見渡すと、漠然と自分が目標にしていたものがはっきり見えてきた。
ところどころに靄がかかっているが、以前より遥かに鮮明に映る。
目指す山が見えたら、改めて見定めようと思う。
今立っている現在地と、これから山を登る為に何が足りないのか。
何を知らなければならなくて、何を身につけなければならないのか、
どんなルートを辿るのか。
ここで一度自分を見つめ直し、改めて一歩一歩着実に歩みを進めていこう。
リスク
前回の投稿においてcisco2340f様より☆を頂きました。
この場を借りて御礼申し上げます。
前回の文章において慮るということについて綴ったので、
今回はその先、行動に移すということに重きをおいて綴ってみようと思う。
どうにも昔から私には決断力というものが欠如している。
前回の「慮」を読み返して、そのルーツを探ってみた。
私は物事の是非を判断する際に、メリットよりもデメリットに目を向ける傾向にある。
ギャンブルの類をしない人は、そのリスク故にギャンブルをしないのではないか。
仮にギャンブルが必ず儲かるというのなら、誰しもギャンブルにのめり込むはずだ。
もとよりそんなことはありえない。
ここで言いたいのは、人は過大なリスクに目を向けた時、
その道を選ばないのではないかということだ。
私の場合はリスクを過大に評価し、日常からその選択を避けている。
結果として、ローリスクローリターンな選択をしている。
目の前にチャンスを見出しながら、リスクを恐れて一歩を踏み出せない。
我ながら女々しい限りである。
失敗からしか学べないことは多々ある。
自分を省みるきっかけになる。そこから新しい道を模索できる。
そもそも選択から逃げるということは、先延ばしに過ぎないのではないか。
この先同様の選択を迫られるかもしれない。
もしも過去の選択の経験がなければ、結局は同じ状況に立たされるだけだ。
しかし仮に結果的に誤りであっても、過去の経験があれば別の選択をすればいいだけだ。
つまるところ、結果はどうあれ判断して行動した経験は、その後の自分の財産となるのだ。
私はもう少し自信を持てとよく言われる。
自信を持つにはその基盤となるものが必要であり、経験もその一つである。
本文を通じて、私が自信を持てないのはリスクを恐れ、
安全性の高く、得るものの少ない選択ばかりを続けてきたツケによるものだと気付かされた。
結果はどうあれ、まずは行動に移してみようと思う。
結果自身がボロボロに傷ついても、その傷跡は必ずより大きな財産となるのだから。
慮
智者の慮は必ず利害に雑う
孫子の一節である。
賢い人は物事について考える際、メリットとデメリットの両面を見て判断する、
と言ったところであろうか。
メリットとデメリットの両面を見比べることが重要であることは言うまでもない。
しかしわざわざ智者の慮と付け加えられていることからも伺えるように、
現代社会においてもそれを実践できている人は少ない。
自分はできていると自負している人でも、常にできているとはいえまい。
多分に主観の所為であろう。
主観が入るとその瞬間から視野狭窄に陥り、自分の信じる面しか見えなくなる。
その他の面から目を背けているに過ぎないのかもしれない。
ともかく、客観的な判断は下せなくなり、利害は蚊帳の外に置かれる。
但し、たとえ利害を慮ることができても、判断を下すのは難しい。
物事にデメリットがあるということは、逆に言えばその選択を採らないという選択にメリットがあるということである。
どちらにもうまみがあればこそ、判断を下すのは難しいのだ。
判断を下すという点に限れば、視野狭窄に陥っている状態のほうがはるかに容易い。
優柔不断を自認する私だからこそ、より強くそう感じてしまうのかもしれない。
とにかく、日頃の何気ない行動の選択にも、その選択の利害を熟考して行動するように心がけたいものである。
自分の苦労話を延々話す知人がいる。
自分の頑張りを誰かに認めてもらいたい気持ちはよくわかるが、
やはり聞かされる方からすると滑稽だ。
そんな知人の言動を見て、感じたことを綴ってみた。
変化
ここ数年間で、四季を愛でるようになった。
大学という空間は、様々な意味で他の世界と隔絶されている。
多くの人が親元を離れ、かつ社会人の様に様々なしがらみに囚われているという訳でもない。(無論個人差はあるが、、、)
そんな環境のおかげで、興味を持った事柄に思うままにトライしてきた。
一方でそのマイペースすぎる生活は、次第に自分と世界とを隔絶させていく。
それ以前は、日常の中で意識せずともめぐる季節を感じる機会が多々あった。
風景、気候、行事、食べ物など挙げるときりがない。
こうしたものに触れる機会は、マイペースに生きると存外少ないものだ。
そして世界の時間軸と自分の時間軸との間にズレが生じ始めた。
自分の時計は止まっていたと言ったほうが正しいかもしれない。
いろいろなことをしても、何か満たされない感情を覚えた。
人がものの大切さに気づくのはそのものが欠落した時なのだ。
めぐる季節の大切さに気づいて以来、それを意識するようになった。
意識し始めると、見える世界ががらりと変わる。
四季折々の風情がより鮮明に映り、愛おしく思える。
かつては五月蝿いと感じていた夏の夜の蛙の鳴き声も、今となっては待ち遠しい。
先日四季について書こうと決めたのもあるが、それ以上に最近の気候になんとも言えない違和感を覚えたことが、この文章を綴るに至った最大の理由だ。
いつまでも今のテーマでは研究をできないであろうことは自分自身よくわかっている。
しかしどんな研究をするにせよ、環境への配慮という点は考えていたいものだ。
理想と現実
今日は来月に控えた院試のため、研究志望概要(要は現在の研究や今後希望する研究)
を書いた。
もう少しスムーズに進むものと思っていたが、
今まで自分が歩んできた道のりから、将来の自分の展望まで書き綴るというのは案外難しいものがある。
ひとつの理由は私自身の文才の拙さであるが、それ以上に自分自身の将来のビジョンや自己分析が穴だらけで、理想と現実との間には未だ大きな開きがあると感じ、
文章を練りながら改めて自身の将来について考えさせられた。
以前の文章でも触れたが、やはり自分の心にあるものを文章に起こすというのには大きな意味がある。
今回の一件にしても、自身の心にあるものを文字として取り出したために様々な発見があり、また、やらねばならない課題が見つかった。
そういう点も含めて、大変有意義な時間であった。
この文章を書いている折、窓かどこかの隙間から入ってきたのか、一匹の虫がPCの画面に飛んできた。考えてみれば暦はすでに6月、もう夏がすぐそこまで来ているんだなと感じる今日この頃である。
こうして四季を愛でることができるのは、大変幸せなことだ。
近々このことについて一度文章に起こそうと思う